浜松という異次元な世界の探求

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「今年は義父の初盆なんだ。」「じゃあ遠州大念仏呼ぶの?」「えっ?遠州大念仏って何??」

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                         写真AC

今年義父の初盆のため、4月から浜松市の風習にのっとり祭壇、盆義理の準備を進めてきた頃、職場で「今年、義父の初盆なんだ。浜松の初盆って色々準備が大変だね。」と浜松市出身の同僚に話をしたら、「遠州大念仏は呼ぶの?」って聞かれました。

 遠州大念仏って・・・?

そうなんです。浜松市(遠州地方)では初盆に『遠州大念仏』という踊りをする方々を呼んで霊を慰める為に太鼓をたたきながら踊っていただく風習があります。

 

 

遠州大念仏について

1.遠州大念仏って何?

遠州大念仏とは、遠州地方の郷土芸能のひとつで、初盆を迎えた家から依頼されるとその家を訪れ庭先でその家の死者の霊を慰めるために踊られる集団念仏踊りのことで、元来は先祖供養の宗教的芸能のことです。

 

大念仏の団体は、夕方依頼された家の手前で隊列を組み(下図)

統率責任者で提灯を持って隊を先導する頭先(かしらさき)を先頭にして

頭(かしら)が飾り提灯、幟(のぼり)、笛・太鼓・鉦(かね)の音に合わせて行進します。笛・太鼓・鉦(かね)・歌い手、その他の役を含め30人超える団体になります。

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浜松市HPより

 

一行が庭先に入ると太鼓を中心にして、その両側に双盤(そうばん)という鉦を置いて、音頭取りに合わせて踊るように太鼓が打ち鳴らされるのが特徴で、浴衣姿に笠をかぶり、念仏や歌枕(うたまくら)などを唱えて演じられるのが基本らしいのですが、その衣装・歌・踊りなどはそれぞれの組によって異なります。

 

また、歌枕は死者に捧げる唄であるため、祖父母・親・嫁・兄弟姉妹など、亡くなった人に合わせて詞章(ししょう/詩歌や文章。謡曲・浄瑠璃など音楽的要素のある演劇作品の文章。のこと)が異なるそうです。

 

 遠州大念仏 2019 〜浜松市上島町〜【上島組】 Kazuki Nishikawa 

 

  

【遠州大念仏保存会の桔梗組】伊田隆允 

【遠州大念仏根堅保存会2017】 KEIKO TAKI 

2.遠州大念仏の由来とは

遠州大念仏の由来は、徳川家康75年の生涯の中で、唯一の負け戦として史上有名な「三方原の戦い」までさかのぼります。

三方原の戦い

元亀3年(1572年)12月22日の申(さる)の刻、現在の2月4日の午後4時から5時ごろ 京を目指す武田信玄の軍勢約25,000人と、織田信長からの援軍約3,000人を加えたおよそ11,000人の徳川家康の軍勢が、三方原の台地で、両軍の死力を尽くした戦のことで、数に劣る家康勢でしたが、一進一退の攻防戦が繰り広げられました。しかし、結果は皆さんがご存知のように徳川方の大敗に終わり、夕闇の中を浜松城に逃げ込みました。

家康の身代わりとなり討ち死にした夏目吉信など、多くの家臣たちの壮絶な闘いによって、家康の命は守られたのです。

犀ヶ崖(さいががけ)の奇襲

夕闇の中を浜松城に逃げ込んだ家康は、武田軍に反撃します。

浜松城の近く犀ヶ崖付近で一部の兵士を集めて夜営をしていた武田軍を犀ヶ崖に追い落とそうと崖に白い布の橋を張り、丈夫な橋が架かっているように見せかけました。

 

更に武田軍を油断させるために浜松城近くの普済寺に自ら火を放って、浜松城炎上と見せかけておいて、武田の陣営の背後から鉄砲を撃ち込み、織田信長の援軍が来たと思いこませ、武田軍を谷底へ追い落としました。そして多くの兵士が亡くなりました。

現在はかなり埋め立てられ、当時の地形とは変わってしまっているが、当時は東西約2km、幅約50m、両岸は絶壁でその深さは約40mに及んでいたと伝えられています。

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犀ヶ崖資料館 犀が崖の夜襲の様子

 

犀ヶ崖のたたり

合戦後雨の夜、犀ヶ崖において刃の音や鬨の声・わめき叫ぶ声がし、目を背けたくなるほどのむごたらしさが満ちあふれていました。 また、崖の付近を行き来する人たちが、しばしば『かまいたち』の難にあったり、近辺の村々には『いなご』の大軍が発生して農作物を食い荒らされたり、さらには流行病が蔓延して、戸毎に病人が続出するようになり、『犀ヶ崖の戦死者の祟り』だと大騒ぎとなりました。

 

城主家康は、この騒ぎのいわれを聞き、深く心を痛め、三方原の戦いで戦死した武田・徳川両軍の霊を慰めるため、1574年(天正2年)了傳(りょうでん)という念仏僧に犀ヶ崖(さいががけ)の供養をお願いしました。了傳は、犀ヶ崖に庵をつくり、大施餓鬼を行い、7日7夜の別時念仏をとなえたところ鎮まり、疫病や害虫も次第に平癒消滅し、領民は、ようやく安堵して平静に戻りました。

 

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                    イラストAC

家康は、了傳を称賛し、怨霊済度は、武門の戦功にも勝るといって、特に松平の称号を与え法力の功を永世に伝えよと、領民に毎年7月13日から15日まで怠りなく大念仏を行うように布告しました。

天正14年了傳は、駿河に移ることになり、法徒宗圓がこれを継ぎ、大念仏の普及に勤めました。

これが遠州大年仏の由来です。

ただし、農作物の害虫や疫病を避けるために始められたという説もあ ります。

 (参考:「土のいろ」遠州大念仏 、遠州大念仏保存会など)

 

3.昔と現在

遠州大念仏保存会によると、中世に始まった大念仏は遠州一円に広まり、江戸時代の最も盛んな時には約280の村々で大念仏が行われるようになりました。

服装用具も次第に華美となり若者たちの娯楽に変化したり、組同士の争いが度々起こったため、「喧嘩念仏」とも呼ばれ禁令が出されることもあったそうです。

 

明治・大正とだんだん知識理解等が薄れていきそうになりましたが、昭和になりこの状況に懸念を抱いた念仏愛好者たちが1930(昭和5)年に犀ヶ崖の宗円堂(現資料館)において各部落間における念仏組の連合組織として「遠州大念仏団」を結成し、以後、この団体に所属する念仏団の念仏を遠州大念仏と呼ぶようになりました。

現在は約70の組が遠州大念仏保存会に所属し活動しています。

4.大念仏はなぜ浜北区(浜松市)、磐田市、袋井市で盛んなのか

かつては浜松の中心部でも活発だったようですが、取締りを受けて徐々に衰退していったようです。そのため取締りが比較的緩やかだった北の農村地帯が生き残ったというのが、浜北区や磐田市、袋井市の北の方が今なお遠州大念仏が盛んな理由です。

5.遠州大念仏の費用は?

遠州大念仏を自宅に呼ぶ場合は、お布施という形で渡します。出先により違いますが約20~30万円位。呼ばれた遠州大念仏を見るのは無料です。また金額も遠州大念仏保存会により違う場合がありますので保存会にご確認ください。お布施の他に飲食のもてなし等があるとのこと。

遠州大念仏保存会所属団体公式HPはこちら

 

6.浜松市無形民俗文化財

遠州大念仏は全国的に知られるようになり、1972(昭和47)年には浜松市無形民俗文化財に指定されました。

 

7.犀ヶ崖資料館

遠州大念仏保存会本部である浜松市犀ヶ崖資料館に行ってみました。

浜松城から近く公園になっています。

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 【浜松市犀ヶ崖資料館】

 

浜松市のボランティアガイドの方が説明しながら犀ヶ崖を案内してくれました。

 

犀ヶ崖資料館はもともと三方原の戦いによる死者の霊を祀った宗円堂というお堂でした。実際には宗円堂のあった場所は駐車場にその手前道路沿いに浜松市犀ヶ崖資料館が建てられています。

 

犀ヶ崖は浜松城の北1キロメートルにある渓谷の名前で、昭和14年(1939年)に徳川家康、武田信玄が戦った三方原古戦場として静岡県の史跡に指定されたとのこと。

 

 

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 犀ヶ崖は三方原古戦場として静岡県の史跡に指定されました。ボランティアガイドによると、誰かがいつも石碑にお花と御線香が供えてくれているとのこと。

 

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(左)本多肥後守忠真の忠義を称えた碑

三方ヶ原の戦いで武田軍に大敗した徳川軍が撤退する際に、殿(しんがり)を買って出て追走する武田軍に切り込んで討死した武将です。
享年39歳。本多平八郎忠勝(徳川四天王の一人)の叔父。

(右)夏目次郎左衛門吉信の忠義を称えた碑 

こちらは犀ヶ崖資料館から10mくらいの場所にあります。

三方ヶ原の戦いの時、浜松城で留守役を務めていたが徳川軍の劣勢を知り、急ぎ戦場に駆けつけ家康公に城に退くように説得して、自ら家康と称し突撃・奮戦して討死しました。こちらは寄附によって建てられたとのこと。皆さんの想いがすごい。                    

夏目吉信は明治の文豪夏目漱石の先祖に当たります。

 

また、犀ヶ崖資料館は、遠州大念仏団【遠州大念仏保存会】の本部として利用され、昭和57年(1983年)にはこの建物を資料館として改修し遠州大念仏及び三方原の戦いに関する資料を展示しています。

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(左)遠州大念仏が始まってから犀が崖で7月15日に踊られる遠州大念仏で、代表1人しか着けられない徳川家葵の御紋入り襟章。現在はこの犀ヶ崖資料館にて毎年7月15日交代で2組の遠州大念仏保存会の皆さんが踊りますが、その時も代表の方1名のみが徳川家葵の御紋入襟章をつけることができるとのこと。                   

(右)17歳の初陣の時より、戦場に臨む際には必ず仏体一躯を甲冑に奉安して陣中守護神。(実物)

 

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 【犀ヶ崖】柵の向こう側赤い矢印の下は崖

 

また、現在も犀ヶ崖では、毎年7月15日に三方原の戦いの死者の供養として、遠州大念仏が行われています。

 

 【浜松市犀が崖資料館】

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犀ヶ崖資料館/浜松市公式HPはこちら

おわりに

遠州大念仏は徳川家康の時代から、あの有名な三方原の戦いの戦没者供養が発端で産まれた踊りです。今でもこの伝統を継承しようと遠州大念仏保存会が頑張ってみえます。昔は男性しか踊れなかったみたいですが、最近は若い女性も踊れるようになったみたいです。

 

私は近所の方が遠州大念仏を呼ばれたので、庭で踊る遠州大念仏と、寺に呼ばれた遠州大念仏を見ました。

鉦、太鼓、笛に合わせ踊り念仏を歌うように唱えます。その踊りは独得で、とてもゆっくり舞う様に踊りながら太鼓をたたきます。見ているとゆっくり時間が流れとても穏やかな感じを受けます。三方原の戦いで亡くなった大勢の兵士達はこの遠州大念仏を聞いて慰められていたのですね。

浜松に住むことになり、『遠州大念仏』というとても貴重なものを知る事ができました。